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心茲にありと

狩野派と土佐派 幕府・宮廷の絵師たち

根津美術館で開催されている「狩野派と土佐派 幕府・宮廷の絵師たち」展に行ってきました。

 

www.nezu-muse.or.jp

 

以下リーフレットより

約400年の長期にわたって日本の画壇に君臨した狩野派。その祖である狩野正信(1434?~1530)は室町時代に漢画の絵師として頭角を現し、りゅうはの礎を築きました。一方、伝統的な絵画様式であるやまと絵の流派である土佐派は、狩野正信と時を同じくして登場した土佐光信(1434?~1525)の活躍により栄華を極めました。その後、日本の画壇は狩野派が制しますが、土佐派の命脈も途切れず、江戸時代前期に宮廷の絵師として見事に復活を遂げました。
この展覧会では、当館が所蔵する狩野派と土佐派の作品を中心に、室町~江戸時代に幕府や宮廷の御用を務めた絵師たちの作品をご覧いただきます。

構成は以下となっています。

  1. 室町幕府の御用絵師たち
  2. 戦国時代を生き抜く
  3. 探幽の登場と江戸の狩野派
  4. 宮廷絵所預 ー土佐派とやまと絵の絵師たちー

 1~3で狩野派の成り立ちから江戸時代の幕府御用絵師としての仕事をとりあげ4で土佐派の作品を取り上げてます。狩野派の方がやはり展示数は多いですね。

 

1.心に残った作品

  • 四季花鳥図屏風 伝狩野元信

狩野元信の「四季花鳥図」といえば大仙院障壁画が有名でここ数年でも2016年東京国立博物館で開催された「禅 ー心をかたちにー」展2017年、2017年サントリー美術館で開催された「天下を治めた絵師 狩野元信」で展示され 、最近では「桃山展 -天下人の100年-」で元信、永徳、探幽と3代(実際には隔世ですけども)の花鳥画を見る機会もありました。(なんて贅沢な空間だったのだろう…)

元信が確立した「真体」「行体」「草体」という画体のうち「行体」で描かれた作品。大仙院の障壁画などに比べると柔らかさがあって全体的に優しいトーンのように感じました。元信は大和絵の画風も積極的に取り入れていたのでその影響なのかなと思ったりします。特にその後に展示されている狩野探幽の「両帝図屏風」の「圧」に比べるとだいぶふんわりした印象です。探幽は永徳と比べると「瀟洒な探幽」とも言われていて、実際私も先の桃山展で見たときには当時こんな感想をメモってました。

 

元信は中国絵画の影響と次の世代に繋がる花鳥画の基礎を作り永徳はダイナミックな構図で引きまれるし探幽は引き算の美学ともいうべき緻密な写生に基づく静謐な作品という個性と時代の違いが見えてとてもよかった。改めて狩野元信の後世の絵師に与える影響の大きさが見て取れて特に四季花鳥図屏風の華やかさと取り入れられた花々と鳥の競演が見事で近世以降の日本画に与えた影響の大きさを感じた。すごかったなぁ。やっぱりドラマにしてほしい。

 

(メモそのままなのでやや日本語変なのは許してください)この元信の作品は地味ではありませんが花鳥が舞い踊るというより穏やかに遊んでる感じでぱっと見「探幽かな?」と感じるような作品に見えました。とはいえよく見ると山や木々の表現には線をきっちり止めて描く狩野派らしさが随所に見られました。後半に登場する探幽の作品がむしろちょっと意外な気がしたのですが依頼に合わせて作風も少しずつ変わったのかもしれません。私は狩野派だったら元信が一番好きかなぁ。

 

  • 粟鶉図 土佐光成

 パッと見た瞬間に「琳派っぽい!」と思った作品。土坡(どは)は淡墨、鶉は写実、粟は院体画と様々な技法がミックスされているそうですが、時代的には尾形光琳と近いですがむしろもっと下った酒井抱一あたりの画風と似てるように思いました。丸みを帯びた鶉の身体に柔らかい羽毛を丁寧に描いて粟の茎は墨でまっすく描き粟は点描画のごとく緻密。鶉は琳派の抱一や其一がよく描いてたので余計そう感じたのかもしれません。というか受け継がれているのでしょうね。

 

桃山時代に当時の当主だった土佐光元が木下藤吉郎の但馬攻めに加わって(このあたりが不運)戦死したことで一度は途絶えてしまった宮廷絵預所の職に復活したのがこの作品を描いた土佐光起だそう。「土佐派中興の祖」とも言われてるそうですがなるほどとっても雅です。
幕府御用絵師の狩野派の「圧」の強い感じに比べるとよく言えば品がよい、悪く言うとお高く止まってるという感じ。でもそういうところがお公家さまたちには好かれたのかもしれません。私は好きでした。
歌が書かれている和紙の地模様が素敵だった。

 

2.全体を通しての感想

狩野派はここのところ足立区郷土博物館で狩野探信守政の屏風絵や晴川院養信の絵画や粉本類を見たり、トーハクで木挽町狩野派特集があったり昨年の桃山展も含めると次々来るなという感じ。去年コロナ禍前の最後に見たのも出光美術館の「狩野派 画壇を制した眼と手」だったしなんだかんだ年中目にする機会が多くやはり人気がありますね。

長く続いているからたくさん残っているというのもあるでしょうし。それに比べると土佐派は控え目。やはり数の理論で負けるのか。私自身も土佐派と言われてこれ!という作品はパッと出てきません。狩野派に押されて衰退した印象だったのですが今回見てみて、お、結構好きかもってなりました。琳派に繋がる要素がすごく多いのですね。
土佐派が復活した土佐光起が俵屋宗達の時代が少し重なるので当時京都で人気だった俵屋の画風に少し影響受けたりしたのかなぁと勝手に想像してみたり。
やまと絵の優美な色使いがとても素敵だなぁと思いました。
狩野派は幕府御用絵師という立場もあってとにかく立派なものを、先人たちの絵から修練を重ねてお殿様の要望に合わせて描かなければならない縛りがあってその中で自分の色を出すことの難しさを感じました。
今回、狩野派が鑑定したお墨付きの札が展示してあったのですけど恭しくこういうものを書くのは権威もあるけどプレッシャーだろうなぁと。

正信、元信までは将軍に引き立てられて画風を模索しながら確立していく過程なので試行錯誤しながら開放的な部分もありますが(正信が師事した小栗宗湛や周文の作品が見られたのはよかった。原点という感じがしました)元信の孫の永徳がちょっと他の絵師たちとは方向性が違いとにかく大きくダイナミックに!という志向でそこだけ全く別世界なんですよね。今回永徳の作品は展示がありませんが(元々焼失してしまい残っているものが少ないこともあり)永徳がない方が流れが繋がっているように見えます。というか永徳は信長に取りつかれちゃったのかなぁ。その後秀吉にも引き立てられて秀吉から依頼された檜図屏風の完成と同時?くらいに急死してしまうのもどこか常人ならざる力のせいという気がしてしまいますね。


もちろん永徳も祖父にあたる元信の絵を真似て描いてますがやはり檜図屏風と唐獅子図屏風あたりは全くそれまでの流れをぶったぎるような作品でこれの後に続くのはそりゃ無理ってことでしょう。
むしろ長谷川等伯が同じような構図の作品を描いているのでこの二人が傑出してたってことなんでしょうかねぇ。天才は同時期に現れるんですよね。ミケランジェロとレオナルドダヴィンチやメッシやクリロナみたいに。
永徳のあと後継者探しに苦労するのはそういうことかな。
その後探幽が登場するまでが狩野派の空白期間のように思えて、長谷川等伯も才能があった息子の久蔵が早くに亡くなり影が薄くなっていったことを考えると代々続けていくって難しいことなんだなぁと思います。
その空白期間を埋めるように登場したのが俵屋宗達なのかなぁという気がしました。

 

探幽は永徳の大画様式は受け継がず元信から連なる狩野派の基本から時代に合わせた作風に変わっていったように思います。

絵の好みはおいといて室町時代から幕末まで途絶えることなく続き江戸に入ってからは学習システムも作り上げ木挽町、中橋、鍜治橋、浜町と分派して広がり表絵師、町狩野と絵師を供給し続ける土台になったことはすごいと思います。江戸に入ってからだって260年ですもん。そんなの外にあります??
明治維新でそれが解体されちゃったのはもったいないなぁと思います。
狩野派が今の文化庁、芸大の役割に変わっていったってことなんですよね。
ただ一度日本美術というものをリセットしちゃったので海外に多数流出してしまったのがほんとに残念。まぁ海外にあった方が大切に扱われてるかもしれませんが。

そんなことをつらつら思っておりました。

 

3.その他の展示から

 

根津美術館の季節ものの展示コーナーがお雛様の茶会になってて柴田是真の雛図の掛け軸が可愛らしかった。
あとお伽草子の絵巻物の得も言われぬヘタウマな絵が堪らんかったです。
双羊尊は相変わらずキュートでした。

 

人気の庭園にはまだ色が寂しく僅かに梅が咲いてました。有名なカキツバタが見頃になるのは1ヶ月以上先ですね。昨年は緊急事態宣言で休園してたので見られませんでしたが今年は見れるといいな。

 

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ひっそりと咲いていた梅。庭園は人も少なくひんやりしていました。