2017年夏の思い出 ジョジョにはまった夏でした④
そろそろ本題に入ります。(え、これまでは何だったのか)
「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」は
虹村兄弟の話だったと思います。
全ては虹村形兆から始まります。
形兆が弓と矢で射貫いたからアンジェロがスタンド使いになった。
その結果、承太郎さんが杜王町にやってきたし仗助のじいちゃんは亡くなった。
虹村兄弟は原作では廃屋のような屋敷から外へ出ませんが
映画では最初に形兆がアンジェロと出会うシーンを始め
億泰が康一と由花子さんが登校しているところに現れて康一を瞬間移動させて
何が起こったかわからず驚いている姿の後ろにアイスキャンディーをなめながら
海を見ていたりとちょこちょこ町に出ています。
スタンド使いが知らないうちに普通に町中に潜んでいるという
ことを表わしていたんだと思います。
億泰のアイスキャンディー咥えた登場シーンは不気味なスタンド使いというより
愛嬌あるあんちゃんと言う感じであんまり怖さはなかったですけど。
街中でむやみに空間削り取るとか危険すぎるでしょ。なんでそんなことしたのか
意味不明ですけど驚く康一もとぼけた億泰も可愛かったからよしとします。
形兆と億泰の関係も原作では形兆がすぐ死んでしまうので、
死んだあとの億泰の言動や出来事から
兄弟の関係性を知ることが多いです。
「いつも兄貴に決断に従って自分では何も決めてこなかった」
「形兆にコンプレックスを抱いており何かを決断するときに
こんな時兄貴がいればなあと思っている」
といったことがレッドホットチリペッパー音石明との戦いのとき億泰の言葉や
ヘブンズドアで過去の記憶を読み取った岸辺露伴先生から語られることで
億泰の兄貴頼りだったことがわかります。
原作では生きている二人がまともに会話している場面がないのです。
映画ではアンジェロが仗助に倒された後二人が屋敷の中で会話するシーンがあります。
父がいる屋根裏部屋を見つめる形兆の後ろから億泰が現れ
倒されたことを告げると億泰は
「兄貴の矢でなったんじゃねぇってことなのか」と聞きます。
「兄貴の矢」という言い方に兄への絶対的な信頼感を感じさせ
さらに「強ええのかそいつは」と億泰が聞くと
形兆は「俺たちの方が強い」と言います。
それを聞いた億泰は「そうだよなぁ、当たり前だよなぁ、兄貴」と
嬉しそうに形兆の顔をのぞき込みますが、形兆は目を合わせません。
そしてガリガリという音が聞こえる屋根裏部屋を見つめます。
これだけの短いシーンなのですが
強い(弟に対して絶大な権力を持っている)兄と従属する弟という
関係性が感じられ、
また得体のしれない何かを抱えていることが伝わってきます。
億泰が兄貴に対して何の疑いも持たずにすべてを安心して任せている様子と
思いを受け止めながらもその重さに静かに耐えている(目を合わせない)
様子がわかる美しくて切ないシーンでした。
仗助と形兆の出会い方も原作とは違っていました。
原作では康一と仗助が下校時に虹村邸の前を通り偶然見えた人影が気になった康一が
門の間から中を覗いているところを億泰に見つかり
形兆に矢で射られることになります。
映画では良平じいちゃんの葬式に形兆が現れ、仗助を誘い出すように
消えていき気になった仗助が後をつけて虹村邸にたどり着きます。
康一は葬式の後一人でいなくなった仗助を心配して追いかけてきて矢に射貫かれます。
形兆が屋敷の2階から矢を射貫くところと形兆が億泰に
「(自分たちにとって邪魔な存在である)東方仗助をぶっ殺せ」
と指示するところは同じです。
原作だと仗助が来ることがわかっていたのか
ただの偶然の機会を利用しただけなのかわからないのですが
映画だと明らかに仗助を殺す目的で呼び込んでいるのがはっきりわかります。
ついでに葬式の場面に現れる形兆は妖しい美しさで
映画形兆はマッチョなイメージの原作形兆とどこまでもテイストが違います。
(三池監督はカメラに映る形兆を見てキャー!と叫んだとか)
形兆は父を殺すスタンド使いを探すために弓と矢で人を殺していますが
原作ではアンジェロと康一以外の町の住民に弓と矢を使う場面はありません。
映画では仕事でむしゃくしゃして自転車を放り投げている会社員の男性に弓と矢を
放ちスタンド使いになることなく死んでいく「選ばれなかった」人間も描いています。
このシーンがあることで、形兆がアンジェロと同じ「人殺し」であることを
具体的に見せています。
こうした映画にないシーンをいくつか入れることで
虹村兄弟の物語に厚みが加わったと思います。
兄貴の東方仗助をぶっ殺せという指示のもと
まず仗助と億泰がクレイジー・ダイヤモンドとザ・ハンドで
戦いますが、間抜けな億泰をあっさり仗助が退けます。
仗助が康一を助けようと家の中に入るととても人が暮らしているとは
思えない廃墟っぷりの中にたたずむ形兆。
足元には血を流して倒れる康一。胸には矢が刺さったまま。
「お前は1枚のCDを聞き終わったらキチッとケースに閉まってから
次のCDを聴くだろう。
誰だってそーする。俺もそーする」
と情け容赦なく矢を引き抜きます。
仗助が形兆に向かっていこうとすると背後から億泰が現れ
「そいつへの攻撃は待ってくれまだ勝負は終わっちゃいねえ」
といったため仗助は攻撃をよけ
後ろにいた億泰がまともに砲撃を受けて倒れます。
倒れたところにさらに
バッドカンパニーの砲弾を浴びせる形兆に向かって
「やめろ!お前の弟だろうが!!」と言う仗助はさっきまで
億泰と戦っていたときと顔つきが違い、
自分を守るためではなく億泰を守る顔、ヒーローの顔になっていました。
バッドカンパニーからの砲撃を避けるために傷ついた億泰を引きずっていくときの
仗助の「おらぁ!!」という声は東方仗助そのものでした。
特に原作でも後半の方の仗助のイメージです。
倒れている億泰に無慈悲にも
「どこまでもバカな弟だ。無能なヤツは人の足を引っ張る。
ガキの頃から繰り返し繰り返し言ってきたきたよなぁ。
そいつにはもう愛想がつきた。何の役にも立たない」
と言いながら更なる攻撃を続ける冷酷な形兆。
このあたりまではとにかく冷たく残酷な兄という印象。
原作ではただ黙って兄貴の攻撃を受ける億泰ですが、
映画では「兄貴…ごめんよ」と
合間につぶやきます。ここでも原作以上に兄貴依存の弟という印象をうけます。
傷ついた億泰に向かってお前の兄貴の能力を教えてくれれば
その傷を治してやると言っても
口を割ろうとしない億泰。原作では黙ったままですが映画では
「言うもんか、兄貴だぞ…」と言って教えません。
あんなひどいことされてもまだ兄貴を慕う億泰は
原作以上に兄貴を愛している様子が伺えます。
仗助は結局億泰の傷をクレイジー・ダイヤモンドで治すので驚いて
何故敵である俺の傷を治すのかと問いかけると
「なにも死ぬこたあねー、そう思っただけだ」と答えます。
これは億泰にとっては衝撃的な言葉だったと思います。
その後に億泰が取った行動は兄貴の言うことではなく自分の気持ちで
初めて起こした行動だったのではないでしょうか。
康一を助けようとする仗助にザ・ハンドの物を瞬間移動できる
スタンドを使って康一を側に引き寄せたのです。
兄弟の道はすでにこの時から違っていたのかもしれません。
無意識のうちに兄貴を裏切ったと感じた億泰はその後、
姿を消し戦いの場には現れません。
兄貴がいないと何にもできないと思っていた億泰はここで
独り立ちしていたんだと思います。
映画ではいつから父親が化けものになってしまったか語られていませんが
原作では形兆8歳、億泰5歳のときに父親は突然変貌してしまいます。
そしてそこから10年間、ずっと父親を普通に死なせるためにはどうすればいいかを
考えてきた形兆。弟を守り、スタンド使いとなって父を殺すスタンド使いを
探す人生でした。
弟がいないと生きていけなかったのは形兆だったのかもしれません。
弟にも同じように行動することを求め、バカだ無能だ足手まといだという
「呪い」をかけて自分の側にいさせていた形兆。
アンジェロは仗助に対して自分を殺せばお前も同じ「呪われた魂」になるぞ
と言いますが、すでに何人もの人を殺して「呪われていた」形兆は
億泰にも同じ「呪い」をかけていたのかもしれません。
その「呪い」を仗助は「おやじさんを治すスタンド使いを探すっていうんなら
手伝ってやってもいいぜ」という一言で解いてしまいます。
父親を治すことなどできない、父親は自分のことも弟のことも何もわからない
化け物だ、殺すしかない、と思うことが彼の支えでもあったはず。
だけど「誰よりも優しいスタンド能力」を持つ仗助は父親が家族の写真を
見せてしまいます。
たぶん仗助はそれを伝えることは形兆の人生の大半を否定し、
彼が生きていけなくなるかもしれないことまで
理解していたのかなと思います。
その上で形兆は渡さないかもしれないと感じながら
「弓と矢をぶちおっからよお」と言ったのでしょう。
形兆が「弓と矢は渡さない」と
拒否しても表情を全く変えず形兆の言葉を受け止めていたのは
ただ待つつもりだったのかなと思いました。
そのやり取りを聞いていた億泰がたまらず飛び出し
形兆に「もうやめようぜ兄貴…親父だっていつか治るかもしれねえじゃねえか」
そのためにたくさん人を殺してしまったためまともに生きられないと
悟っている形兆は
「出会いとは重力。重力がすべてを引き寄せた」
「その運命に逆らうつもりはない」
「お前はもう弟でもなんでもねぇ」
と億泰を突き放します。
原作ではこの後、音石明のスタンド、レッドホットチリペッパーに襲われそうになった
億泰をかばいコンセントの中に引きずり込まれてしまうのですが
映画では仗助が
「違うぜ。運命なんてものはこっちの思いでどうにでもなる」
と力強く言います。これは物語終盤の吉良との戦いで必要な
大いなる意思でもあります。
最後、形兆は原作のレッドホットチリペッパーではなく
吉良吉影のシアーハートアタックの攻撃に倒れることになるのも
映画の構成としては当然の流れになるのかもしれません。
形兆がシアハ(原作ではレッチリ)に攻撃されなかったら
(形兆が生きていたら)どうなっていたか?は
ファンはみんな考えますし、普通に考えれば人殺しですから
どうしたって幸せな結論にはなりません。
だけど仗助の「治すスタンド使いを探す手伝いならしてやってもいい」
という提案は形兆の10年を一度全部否定して壊した上で
これからの人生を直してやるという意味だったのかなと思っています。
仗助はそれくらい優しくて大きい男だよなぁ、と思います。
もうちょっとで形兆は違う人生を歩めたかもしれないのにという
無念さを残し塵となって消えてしまいました。
億泰は自分のことをバカだ無能だと言っていた兄貴が最後は自分のことを庇ってくれた
という死ぬほどつらく愛しい思い出を胸に生きていくことになります。
その一部始終を見ていた仗助は肉親を殺されるつらさを知るもの同士として
億泰のそばに居続けます。
康一はその二人とともに町を守るために強い勇気を持つ人になりました。
形兆から始まった「ダイヤモンドは砕けない 第一章」は次の殺人鬼吉良の登場を
匂わせて終わります。
最後に3人が学校に通う後ろ姿は三人の杜王町を守る冒険を予感させ
第二章でどんな活躍を見せるのか大いに楽しみになりました。
実写映画としてこれが最上だったかどうかはわかりませんが
少なくとも原作のキャラクターの魅力を損なうことなく
映画ならではの演出によって新たな魅力を加味した上で
「ジョジョの奇妙な冒険」の映画化は成功したんじゃないかと思います。
「スパイダーマン」がいろんな監督が同じ話を何度も映画化しているように
この後、もしかしたら別な監督がまた違ったジョジョの映画を作るかもしれません。
その時、あの三池版ジョジョはこんなだったよね、みたいな話が
できるようになったら素敵だなあと思います。
ええと、もう少し続きます。次は続編への勝手な予想について
ちょっと書いておこうかなと。